2024.03.12

京都カルチャー、河井寛次郎記念館へお出かけ

京都市東山区、河井寛次郎記念館(かわいかんじろうきねんかん)。国道1号の五条陸橋近く。

五条通からひと筋南へ下がっただけで静か。このへん道も細いのに民家が建ち並んでて、ほんま狭い京都。「暮しが仕事 仕事が暮し」の言葉を残した陶芸家・河井寛次郎(1890~1966年)。記念館は生活と作品創作の場やったとこ。開館50周年とかでちょっと前にEテレ日曜美術館で紹介されてしまって、ゲッ、マジか。。

平日の午前。案の定、入館したときはまだ少なかったけど、お昼前には人だらけ。特に外国人はこういう日本文化、見逃さはらへん。写真撮ってる2階にも結構な人。木造やで~、落ちるんちゃぁうん。

申し出たらカメラOK。民藝(みんげい)やし、カメラ拒否はないやろな、思てた。仕事は暮らしそのもの、言うてはるし。

日本各地の民家、主に飛騨高山のを参考に寛次郎が設計し、生家・島根県安来の大工の兄が建ててくれた家。木製ベンチや大テーブルもあって、きっと、いろんな人たちが集てはったんやろね。

2階へ上がる箱階段。引き出しついてるやつ。昭和12年、民藝運動仲間、陶芸家・濱田庄司(はまだしょうじ)氏からの新築祝。右上には柳宗悦(やなぎむねよし・そうえつ)から新築祝の柱時計があるんやけど、写真切れてしまった。説明書、後で読んだもんで。。。

裏の作業場の方には、こんな椅子やテーブルも。語らう声が聞こえてきそう。

蓑(みの)・・Eテレで紹介の逸話。柳宗悦と山形の農家訪問したとき出会った蓑がお気に入りして、「手を省いたのでいいから蓑を造って欲しい」とお願いしたところ「手を省いたものをつくるスベ知らん」と言われて、寛次郎、ものスゴ反省。「考えやなんかでものをつくるのは浅はか。確かなものをつくりたいのなら、確かな暮らしをせよ」と悟ったとか。民藝ってそー言うことなんやね。。。。話それるけど、柳宗悦・監修の「民藝図鑑(みんげいずかん)」。

1、2まで読んでん。昭和35年頃刊行のの新装版。フィクションにちょっと飽きたなぁ思いつつ本屋で物色してて妙にお気に入り。民藝に特に興味があったわけやないけど、旅好き美術館好きやし、見たことあるもんも結構あるな思て。言うても図鑑やし退屈かな思たら、スマホ片手に漢字を調べ調べ・・もう、漢字、書けへんし読めもせーへんね・・美容院でも居眠りどころか時間を忘れて読んでたことにビックリ。私って、民藝、好きやったんやー、を発見。というワケで近所にある河井さんちの記念館行ってみよ思た矢先にEテレ紹介されて、つい舌打ち。。。話もどしましょう。

陶芸家・寛次郎の作業場。

横には素焼釜(すやきがま)。さらに奥には・・

おぉ~登り窯やん。五条坂の貴重な文化やけど今は昔。煙は公害やねん。

このコーナーは、ひ孫の陶芸家さんがディスプレイしてはる言うてはった。別のひ孫の宮大工さんが家を管理してはって、記念館の学芸員はお孫さんやと・・Eテレ情報です。手を省かへん確かな暮らしを心がける寛次郎の背中、みな、見てはったんやね。これは遺産やなくて継続する暮らし。

陶芸作品は、大正期、戦前、戦後といろいろに変化。記念館のあちこちに展示されてます。

書きものもあったり。棟方志功(むなかたしこう)もお友達やったんやー。民藝の時代、なんか、楽しそーやな―。

寛次郎がデザインした真鍮のキセル。タバコはキライやけど、これでちょっと一服やと絵になる。

晩年は木彫(もくちょう)にも興味。陶器も最初は釉薬(ゆうやく)・色を研究してカラフルな作品よーさん作ってはったけど、晩年は、形の河井と言われるほど作品が自由な発想で作られてる。

ほんまに、大胆な作品がそこここに。けど、みな、優しそーや。ほのぼの。

中庭の猫の置物もほのぼの。。。ホンモノです。動かへん。居心地がえぇんか、大勢の見物人に呆れてるんか。

なんやここだけ、違う世界に迷い込んだよーや。ちょっとググってたら、映画・寅さんシリーズのロケ地にもなってたとか。そやそや、なんや見たことある中庭や思た。いしだあゆみがマドンナやったやつ。寅さんが、清水の有名作陶家と知り合いになってもらった抹茶碗。とらやで、あわや灰皿代わりにされそーになってたけど、河井寛次郎やったら怒らはらへんに違いない。いろんなもんに感動し、「驚いている自分に驚いている自分」と語る寛次郎の暮らしと作品、楽しませてもらいました。