2023.03.21

京都・醍醐寺理性院、若き狩野探幽に出会う~冬の京都カルチャー

絵師・狩野探幽(かのうたんゆう)18歳の障壁画。恒例の、冬の閑散期の京都カルチャーで公開。サクラの春になっちゃったけど、カメラOKやったし、ちょっとご紹介。

京都市伏見区、醍醐寺(だいごじ)の塔頭(たっちゅう)で別格本山、理性院(りしょういん)。1115年の開創。応仁の乱で焼失し江戸時代に再建。山門を入ると・・

ずら~りと、圧巻の千体地蔵(せんたいじぞう)。境内に散らばるお地蔵さんを先代のご住職が集めはったとかで、制作年代はいろいろ。

お猿さんのお地蔵さんも、いてはります。真っ赤なよだれかけが、カワユイ。

今回の目玉、狩野探幽、18歳の頃の作とされる「水墨山水図(すいぼくさんすいず)」が残るのは、客殿の上段の間。客殿は1617年頃に建てられたもの。この黄金の襖も、なかなか、ハデやなぁ。奥に狩野さん飾ってはるし気ぃつこて、やろか。

空白の美、が良いと言われてる、と、ガイドさんから解説あり。正面画の右下には小舟が二艘ポツン。真ん中には何もなし。もともとは、探幽の父・孝信(こうしん)が請け負った仕事やけど、描き始めてすぐ亡くなってしまったために、探幽が引き継いだとか。特に、左面を描いてて、切り立った山の荒々しい筆致が、18歳の若い探幽らしい、と言われてる、と。

アップ。描かれてるんは、琴棋書画(きんきしょが)・・古くから、中国の文人がたしなむべきとされた、囲碁、琴などに興じる様子がモチーフらし。現存する10代の探幽は少なくて貴重なんやて。けど、探幽の筆だと判明したんは、昭和50年代に入ってから。「若かりし探幽が座敷絵を描いてるんを見て、当時の醍醐寺の座主(ざしゅ)が盃を与えた」と記された日記が発見されたんやってさー。そやろね、って、素人がセンエツやけど、狩野派と言えば最大派閥の御用絵師。京都中にいかにも狩野派って絵ばっかあるやん。けどけど、素朴な水墨画やからこそ、今回見てみよかなて思たんっス。なんせ私は、絵師・長谷川等伯びいきやさかい。。。おじいさんにあたるんやろか、長谷川等伯と同じ頃の桃山時代に活躍してたんが狩野永徳(かのうえいとく)。権力者たちにひいきにされ才能もあった人やのに、ライバル等伯に嫉妬して苦しむ生涯を、作家・山本兼一(やまもとけんいち)の「花鳥の夢」で読んで、狩野派のくせにと、どーも好きになれへん。去年の冬旅カルチャーでも、特別公開なのに探幽の複製画を公開してはるとこあって、なんじゃそら、宝物館に国宝を常時公開する京都で、お金取るなよと思たことも。ハハッ、探幽はん、とんだとばっちりやなぁ、などと思いながら、まだまだ青い筆致の探幽を、それなりに楽しみました。

本堂はカメラNG。一木造の不動明王坐像(ふどうみょうおうざぞう・重文・平安時代)。毘沙門天立像(びしゃもんてんりゅうぞう・鎌倉時代)は、結構イケメンでした。客殿にも本殿にもそれぞれガイドさんがいはって、女子ひとりでじーっと仏像やら見てると、「どちらからきはったん?」と、たいがい聞かはる。他府県への旅で尋ねられて、私が「京都から」って言うと、ほぼ100%、自分の京都エピソードを語り出さはるんで、なんか私も上から目線になってしまう。で、今回のよーに京都市内で尋ねられたら、京都から言えへんし、「下京区から」って答えると、「電車一本やん」とちょっとがっかりなニュアンスで返されたりする。たぶん、京都のガイドさんも上から目線なんやなぁ、って。「鞍馬寺の毘沙門天さんも男前やったでー」、などとちょっと対抗してみると、「鞍馬の駅のデッカイ天狗さん、鼻に大きなばんそうこう貼ってはったことあって笑ろたわ」とか。。。「災害復旧中やったんやね」などと返すと、笑てはるけどムッとしてはる。。。大人げないんでやめましょう。京都の人はみな、プライド高いっちゅう話でした。文化庁の人らは、上手にやっていかはるやろか、ねぇ。