岡山県・備中松山城、天空の山城はハァハァ・・~京女のひとり旅88
しんどーても上ってきた甲斐あるぅ~。青空と新緑と備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)。岡山県高梁市(たかはしし)。
全国で最も高いとこに現存する、天守。
見えるかなぁ。標高430m臥牛山(がぎゅうざん)。てっぺんのちょい右手に天守。JR備中高梁駅そばのお気に入りホテルからのショット。8合目から残りの700mを約20分ハァハァへぇへぇ・・て上る。
よくぞまいられた、城主にも励まされ。。
おぉ~、キレイやねぇ、芸術的な石垣群。天然の岩盤の上に石垣。さらにその上に土塀。疲れも吹っ飛ぶわー。
上り切って振り返ると、山々に囲まれた城下町・高梁が見える。大きな高梁川も流れてるので、条件がそろうと霧発生⇒雲海⇒天空の山城、となる。何度かお出かけしてるけど雲海見たことない。雨で天守が見えへんかったことは・・ある。
岡山自動車道・賀陽インターからだと、すんごい高低差の国道をくるんくるんと回って高梁に入る。まちが視界に入るけど、見てたらダイブなる。よそ見厳禁。ここは途中のまち見の展望所。バックミラー見てからブレーキ踏まんと追突されそーや。切れてるけど右手にお城の山も見えてる。雲海見の展望所もあるらしけど、冬にあのくるんくるんは。。。
備中松山城は、鎌倉時代、大松山に築かれたのが起源なんやて。関ケ原の戦い時の城主が毛利輝元。毛利氏が敗れると徳川幕府の支配下に。幕府の命により、小堀正次・政一(遠州)父子が奉行として赴任したとか。あの作庭家・小堀遠州ですよ。あっ、それでか。ランチビールあとの午後散歩に、庭園公開してたんで何の気なしに入ってみたんスよ。サツキが見頃かも、思て。(九州旅ランチ編)
すご~~い。ちょっと感動、酔い覚めた。上手に造られてる。こじんまりしてるけど、借景の愛宕山もバッチシやん。京都のだだっ広い庭よりえぇんちゃーうん、とパンフ見たら、小堀遠州作って・・ビックリ。こんなとこまでなんで来はったんやろ、とマジメにパンフ読んだ。父の逝去後、松山城を預かり備中の国政をつかさどる。建築家でもあって、山上の城郭の改修に着手し、その間に仮の館として政務を行ってたんが、頼久寺。ついでに庭園もつくったらし。
頼久寺正面。高梁って、横長の石垣の上に線で引いたよーな白壁土塀があって、その後ろに立派な瓦屋根の建物がいくつか見えてて、ってお屋敷をよく見かける。山あいの城下町の風情なんやろか。独特の味がある。
備中松山城、途中になったけど、播州赤穂の、あの浅野氏が城を預かったこともあり、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が城代として松山城に滞在。麓から城へと登る道には大石内蔵助腰掛石もあるとか。さらに、幕末には徳川慶喜(よしのぶ)を補佐した藩主・板倉勝静(かつきよ)がいて、その勝静に仕えた漢学者・山田方谷(ほうこく)が、最近読んだ、澤田瞳子(さわだとうこ)著「孤城春たり」の主人公。「借財10万両から蓄財10万両へ。わずか7年で財政を立て直した備中松山藩の改革」との本の帯を見て、ぶっちょいハードカバーの本を買い、九州旅で高梁へ立ち寄り、ハァハァ息も絶え絶えに天守へ登ったっちゅうわけです。
山田方谷記念館。受付の方は館長、「方谷から数えて5代目の山田です」言うてはりました。10万両は現在の300億円相当。数か月前に読んだばっかやのに、ほぼ忘れちゃったけど、数年後、文庫化されたときにまた買って、久しぶりの高梁旅や~言うて来ることができたら、なんか平和やん。本の中でただ一つ鮮明に覚えてたことは、方谷さんの時代には、臥牛山山上の天守は、閑職の初老の武士が山城番として警護。大石内蔵助みたいに腰掛けつつ通わんでも、日常の政庁は臥牛山ふもとの藩主屋敷の御根小屋やったこと。また別の城の本では、明治の廃城令で全国の城が取り壊される中、この山城が生き残ったんは、搬出に手間と費用がかかりすぎるため放置されたと。なんか何か身も蓋もないやん。けどさー、閑職も放置もこの山城の持つ強運かも知れへんね。あやかったら楽に生きられそーや。
美観地区・紺屋川筋。映画、男はつらいよ。寅さんやったか共演者やったかが、ここらへんで電話してた場面をいっつも思い出して、高梁に来るたびここからパチリ。進歩ないなー。まあこれも、楽に生きるヒケツと言うことで。