2023.03.08

名古屋へ。愛知県美術館・岡本太郎展「本職?人間だ。」~京女のひとり旅43

「森の掟」(1950年)。おぉ~、ダイナミックやん。さすがの私でさえ、生まれる前の作。「岡本太郎」の展覧会、愛知県美術館で楽しみました。

名古屋っぽい。スケール、デっか!。ポスターちゃいます。名古屋市に寄贈したなるよーな青空ショット撮れました。もちろん、JR名古屋駅からこの県美エリアまではウォーク。30分強。ちょっと疲れるけど天気えぇし。

「明日の神話」(1968年)。これは去年見た、富山県美術館でコレクション展示されてた幅約10mの下絵(富山県美のブログ参照)。成果品はメキシコのホテルの幅約30mの巨大壁画だったとか。関西人やし、岡本太郎と言えば大阪の万博記念公園「太陽の塔」。そっか、画家やったんやー。富山県美で興味がわき、ちょうど全国巡回展覧会中だったんで、最後の名古屋展まで待ってました。大阪会場より名古屋会場を選ぶ旅女。「明日の神話」は愛知県美にも幅約11m下絵の展示あり。

「本職?人間だ。」・・画家と違いまっせ、と展覧会看板で強調。失礼しました。あまりに多岐にわたる仕事ぶりから全貌が捉えきられへんかったよーで、「何が本職なのか?」と聞かれ、「人間――全存在として猛烈に生きる人間」と答えたと。メディアでは私もちょくちょく見てたんで、らしい答え方が、ちょっと懐かしい。展覧会はカメラOK。がぜん、えぇ人に見えてきたよーん。

「傷ましき腕」(1936年・1949年再制作)。1929年、18歳で家族とともにヨーロッパに渡った太郎は、単身パリで芸術家を目指す。これはパリで、シュルレアリスム(超現実主義)運動に参加してた時の制作らし。会場内、結構人がいはったんで、写真はちょい横から撮ってます。見る人たちお互い、ジャマしたらアカンし。

「露店」(1937年・1949年再制作)。40年ぶりにニューヨークから初里帰りのやつなんやて。パリでの青春時代は滞在10年余り。ピカソ作品に出会って抽象絵画を描き始めるも、作品は戦火で焼失。第二次大戦で帰国、中国戦線へ出征、捕虜生活を経て1946年に復員。戦後の、旧態依然とした日本の美術界の変革を目指し「夜の会」を結成。その名称ともなった作品が・・

「夜」(1947年)。太郎語録・・・今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。・・・と、日本の文化を挑発。女子がシュッと立つ姿に、見入ってしまいました。

トップに貼り付けた「森の掟」。森の静寂を破るチャックのある怪物。抽象と具象、愛憎、美醜など対立する要素が生み出す軋轢のエネルギーを提示する「対極主義」を掲げて開始した、前衛芸術運動の代表作。

「重工業」(1950年)。同じく、アヴァンギャルドの旗手的な作品。人間が機械に振り回されてるらしけど、力強くて、ものスゴ、ひかれる。

「燃える人」(1955年)。1954年のビキニ環礁の水爆実験で第五福竜丸が被爆した事件をもとに描かれた、とか。

「若い太陽の塔」(1969年)。その後ろの白黒写真に注目。上半身裸の太郎。旧都庁舎の壁面や屋外彫刻制作の写真らし。1956年ってある。芸術とは生活そのもの。芸術は大衆のもの、芸術は自由だ、と、積極的に社会へ飛び出していった。

大阪万博は1970年。ちょっと疲れてロビーで休んでる「太陽の塔」。ハハっ。。なんでも、会場内には高さ70m、1/50の「太陽の塔」が展示されてたらしけど、来場者がイタズラしたとかでこの日は修理中、展示ナシ。まあ、「太陽の塔」くらいなら、私の写真で・・

スイマセン。余計なもんまで写ってて。万博記念公園、2008年3月、花見に行ったときのやつ。大きな荷物はきっと宴会セット。ファミリー見ててもつまらんので、最近の未亡人ひとり旅ではお見限り。中国自動車道から見えてた太陽の塔と桜も、新名神高速ができてからはついぞ見ることも無く。。それにしても、展示物、傷つけに来んな!!

気を取り直して。「顔」(1952年)常滑で制作した、最初にして最大の陶芸作品やて。太陽の塔の顔のイメージ、ずいぶん昔から確立してたんやね。大阪万博を経て岡本太郎の存在は広まり、1981年の「芸術は爆発だ!」のCMでさらにメジャーに。

「雷人」(1995年・未完)。絶筆と言われる未完作品やけど、とてもパワフル。晩年は、過去の主要作品に加筆や、時には描き替えたりしてたらしく、最後まで自分の未来を更新しようとしてた、と。

太郎語録。作品もやけど、言葉もパワーみなぎるもんばっかやねぇ。こんな人、現代にはもー、いはらへん。まぁ、また会いたくなったら、神奈川県川崎市に美術館があるらしので、旅しよう。